2011年8月28日(日)に、海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会を開催しました。
多くの方のご参加、ご協力、どうもありがとうございました。
当日の案内文はこちらです。
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海南島近現代史研究会 第5回総会・第7回定例研究集会報告
8月28日に、海南島近現代史研究会第5回総会と第8回研究集会を併催しました。主題を「海南島における日本の侵略犯罪のいま」として、「朝鮮報国隊」と、「海南島戦時性暴力被害訴訟」の二つの課題をとりあげました。
「朝鮮報国隊」については、韓国からイ ガンヒさんとハン グァンスさんをお招きしました。
おふたりは、1943年ころに「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行され44年2月17日に陵水で亡くなったハン ギソクさんの夫人とご子息です。
イ ガンヒさんは、はじめての来日で、90歳という高齢にもかかわらず、しっかりとした口調で話しをしてくださいました。
イ ガンヒさんは「ソウルからみなさんに話をするためにやって来ました」と前置きをされて、つぎのような内容のことを話されました。
「20歳のときに結婚してわずか2年後に夫が逮捕された。
上司の罪をかぶっての逮捕で、半年ほどで戻れると思っていた。
裁判の時に、子供をおぶっていったが、泣くので法廷に入れてもらえず、夫は子供を見ることができなかった。
夫は獄中から子供の写真を送れと言ってきたが、当時は簡単に写真が撮れずに送ることができなかった。
1年後に夫の消息が途絶えた。
それから連絡が入ったので、夫の父が行くと、カンに入った遺骨を渡された。
遺骨を埋めたが、その場所が3度ほど変わり、最後は火葬にして、灰を水に流した。それがとてもつらい記憶になっている。
息子は自分の父親の名を一度も呼ぶことができなかった。
夫に食事をさせないまま送ってしまったことを今でも悔やんでいる。
夫の死後は血の涙が出るほど苦労した。
夫の父親は朝鮮戦争のとき銃殺された。
夫の兄弟8人の世話と自分の息子を育てるために大変な苦労をした。
食事を断って死のうと思ったこともあったが、子供をどうするのだ、と言われて、死ねなかった」。
「朝鮮が日本の支配下になかったならば、こんなことは起きなかった。」イ ガンヒさんは話の中でこの言葉を2度繰りかえしました。
続いて、ご子息のハン グァンスさんが話しました。ハンさんは昨年8月の第4回総会のときも来日され、報告していただきましたので、今回は2度目の報告になります。ハンさんは、つぎのような内容のことを話されました。
「オモニの来日は最後の機会だと思っていっしょに来た。
オモニの経験した苦労と比べたら自分の苦労は100万分の1位にも及ばない。
これまでオモニに苦労をかけないように、という思いで必死に生きてきた。
兄弟がいて父親がいる家庭を見るといつもうらやましかった。
これまで勤勉誠実に生き、4人の子供にも恵まれたので、オモニの人生の苦悩を少しでも和らげることができたかと思う。
この海南島近現代史研究会のことはとても心強く思っている」。
おふたりの話のあとに、質疑応答を行いました。
遺骨を受け取った時の様子について、イ ガンヒさんは10人くらいの遺骨箱がまとめて届いていた、と話しました。また夫の死亡状況について説明はほとんどなく、海南島で盲腸の手術で感染して亡くなった、という説明を受けただけだ、と語りました。
そのあと、キム チョンミさんが「「朝鮮報国隊」の軌跡」について報告しました(報告の内容は、「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会」のブログの8月28日、29日、31日の「「朝鮮報国隊」の軌跡」1、2、3をみてください)。
休憩をはさんで、「花こころ」の糟谷尚子さんが、2008年夏から「花こころ」は、「慰安婦」問題に関するドキュメンタリ―の上映、学習会、講演会などを続け、ソウルの水曜デモに呼応して毎月第3水曜日に姫路駅前で水曜デモを実施し、日本政府に謝罪・補償を要求する活動を行っていると報告しました。
続いて、海南島戦時性暴力被害訴訟にはじめから参加してた杉浦ひとみ弁護士から話を聴きました。
杉浦さんは2001年7月にこの訴訟を始めた動機を「歴史をしっかりと見つめなければならない」という気持ちからだった、と語りました。またこの提訴が、被害者の補償請求よりも、むしろ「日本政府が戦後この被害を救済せずに放置したことによって生じた名誉の低下に対して謝罪せよ」という主旨の訴訟だったことを強調しました。
杉浦さんは、
「被害を受けた女性たちは、14,15歳の少女のころに日本軍に監禁され、強姦された。
逃亡しようとすると罰として四つん這いにさせられ、おなかに剣の先を突き付けられた状態に置かれた人もいた。
日本兵は妊娠した女性のおなかを切りさいて胎児をとりだしたこともあった。
被害女性は、食べ物も満足にあたえられずに監禁され、昼間は農作業などの労働に従事させられ、夜は強姦されるという状態を長期間にわたって強要された。
それは『夜と霧』で描かれたアウシェヴィッツ収容所の状況に似ている」
と語り、この裁判の意義について、次のように語りました。
「最高裁の判決でこの裁判が最終的に敗訴となったが、被害の事実を裁判所が認定した意義は大きい。
この虐待行為を認定すると同時にその卑劣な行為が批判され、またPTDSの症状についても認定された。
さらに罪を犯した軍人と国に対する賠償請求権も認定した。
しかし、日中共同声明で中国が請求権を放棄したことを根拠にして訴えが退けられた」。
最高裁判決が出た後、弁護団は2010年11月に海南島を訪れ、原告の6名の女性(原告のうち3名は裁判中に亡くなられた)と遺族の自宅を訪ねて、裁判結果を報告しました。杉浦さんはその時の訪問の様子について、映像を追いながら説明しました。
杉浦ひとみ弁護士の報告のあと、神戸・南京をむすぶ会と兵庫在日外国人教育研究協議会が8月中旬におこなった海南島でのフィールドワークについて報告が、団長の宮内陽子さんら4名の方からありました。 500人碑、八所港、「朝鮮村」、日本軍が建設した南渡江鉄橋跡、佐世保第8特別陸戦隊の司令部跡、特攻艇「震洋」格納トンネル跡などを見た、という報告でした。パトカーが先導するなどの規制のもとであったため、当初予定していたところに行けなかったところが多かった、とのことでした。
つぎに、今年の2月25日から3月9日まで、紀州鉱山の真実を明らかにする会として19回目、海南島近現代史会として6回目の海南島「現地調査」について、竹本昇さんが報告しました。
今回訪問したのは、東山鎮、月塘村、「朝鮮村」、佛老村、金鶏嶺、黒眉村、板橋鎮、新龍鎮新村、八所、沙土、長流などで、島を1周して「聞き取り」を行いました。とくに新龍鎮新村では、1945年3月2日に日本軍に追われて地下室に逃げ込んだ4人の戦士が、地下室をでて日本軍とたたかった場合に日本軍が村人を虐殺するのを回避するため、自爆したことを知りました。その日はそれから66年後の2011年3月2日でした。自爆した湯主良さんの夫人の張亜香さんから自爆に至った詳しい経緯を聴き、村と村民を守るために闘った抗日闘争の実情を知ることができました。竹本昇さんは、証言する張亜香さんをビデオカメラで撮影させてもらっているとき、撮影している自分のありかたを問い、事実を伝達するためには、撮影を続けなければならないと考えていたと報告しました。
最後に、「日本政府・日本企業に侵略犯罪の責任をどうとらせていくか」を主軸として、参加者ひとりひとりから発言を受けました。
参加者がみずからの日常の取り組みや家族の関わりの中で、海南島の侵略犯罪という事実とどう向かい合うかという姿勢が明確にうちだされた貴重な発言が印象的でした。
韓国の「朝鮮報国隊」の遺族の方々、海南島戦時性暴力被害訴訟にはじめからかかわってきた弁護士、「慰安婦」問題に向き合ってきた花こころのメンバー、「海南島フィールドワーク」に参加したみなさん、海南島でともに調査・研究をすすめている海南民間抗戦研究会準備会の方々など、海南島近現代史研究会の運動が多層のネットワークをつくりあげ、そのネットワークが社会のうちに着実に根づいてきているということを実感することのできた総会・定例研究会でした。
斉藤日出治
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