2013年8月25日(日)
海南島近現代史研究会 第7回総会・第12回定例研究集会を開きました。
ご参加、ご協力どうもありがとうございました。
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海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究集会報告
きょう(8月25日)、主題を「海南島と沖縄」とする海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究会が開催されました。
はじめに、知花昌一さんが、現在のなかに過去と未来があると述べ、現在の沖縄は、辺野古新基地建設やオスプレイの配備に示されている構造的差別にもとづく第5の琉球処分に直面していると話しました。
知花さんは、
“1945年の沖縄戦は第2の琉球処分であった。このとき日本軍は沖縄の住民を守らず住
民を虐殺した。住民虐殺は、日本軍が沖縄の住民をスパイと見なして直接処刑したこと
だけでない。「集団自決」というコトバでいわれてきた集団強制死もまた実体は住民虐
殺であった。日本政府は教科書から沖縄における集団強制死という事実を抹消しようと
した。これに対して沖縄県民は、2007年9月に、10万人の県民大会で抗議した。
読谷村の9か所で強制的な死を余儀なくされた。そのひとつのチビチビリガマで83人
の村人が強制死させられ、2人がアメリカ兵に射殺された。
チビチリガマでの集団強制死については、1983年までは、語る人はほどんどいなかっ
た。わたしもこのときまでは、行ったことがなかった。強制死させられた人の名も数も
明らかにされていなかった。1983年に、下嶋哲朗さんが中心になって「調査」をはじめ、
わたしも協力した。
生き残った人たちの証言を聞いて、天皇制教育、軍国教育の恐ろしさを実感した。
わたしは、1987年10月26日に読谷村で海邦国体ソフトボールがおこなわれたとき会
場のメインポールの「日の丸」を焼き捨てたが、あのとき、読谷村では、直前までは
村長も「日の丸」をあげるのに反対していたし、村議会でも日の丸強制反対決議を採
択していた。
沖縄への歴史的差別、障害者差別、部落差別、朝鮮人差別、ハンセン病への差別と
いう構造的差別にたいする現在のたたかいのなかに未来がある”、
と語りました。
つづいて、キムチョンミさんが、朝鮮の獄中から「朝鮮報国隊」の隊員として海南島に連行され殺害された朝鮮人が埋められている「朝鮮村」の現場が、1998年の最初の訪問時から現在までどのように変化しているかについて、それぞれの時期の映像を示しながら報告しました。また、「朝鮮報国隊」がどのように海南島に派遣され、どのような強制労働がおこなわれたのかについて、生還した「朝鮮報国隊」の人たちの韓国での証言に基づいて報告しました。最後に、これまで会が「朝鮮報国隊」について聞き取りや調査を通して明らかになったことをまとめた報告集を作成中である、との案内がありました。
斉藤日出治は「住民虐殺と強制集団死−海南島と沖縄」というテーマで報告しました。まず、今年の3月に海南島の昌江黎族自治県の各地の村を訪問して聞き取りをした住民虐殺、強制労働と虐待、性暴力、村の焼却などの実態について報告しました。とりわけこの地域は石碌鉱山が近くで、各村の人たちがこの鉱山に組織的に大量動員され、過酷な労働を強いられたこと、マラリアが流行した時に患者および患者の疑いのある人を生きたまま焼き殺されたこと、などについてあちこちの村で聴きました。また沖縄の集団強制死が沖縄では日本軍による「住民虐殺の中に位置づけられており、日本軍が海南島で行ったのと同じこと(住民虐殺、性暴力、食糧の略奪、強制労働など)が沖縄でもおこわれていたことを指摘しました。
佐藤正人さんは、日本の海南島侵略と「琉球処分」と宮古・八重山地域植民化について報告しました。佐藤さんは、1869年から1879年にかけての日本政府のアイヌモシリ植民地化、「琉球処分」、「台湾藩地処分」は、現在にいたる日本国家の他地域・他国侵略の起点であると述べ、その侵略の歴史を、文書資料だけでなく証言を聞きとる過程で具体的に明らかにすることの意味について話しました。そのなかで、1945年4月2日の読谷村における住民虐殺を記録する作業とその1か月後の5月2日の海南島の月塘村での住民虐殺を記録する作業が同じ質の作業であると述べました。最後に佐藤さんは、
“硫黄島戦も沖縄戦も、天皇制国家体制(「国体」)を維持するために天皇ヒロヒトら
少数の権力者が遂行した戦争であった。天皇ヒロヒトらが遅くても1944年7月にアメリ
カ合衆国軍のサイパン島・グアム島再占領時に戦争をやめていれば、それ以後、アジ
ア太平洋各地の民衆が犠牲になることはなかった。沖縄戦で、10数万人の沖縄人・朝鮮
人が殺されることはなかった。
しかし、天皇ヒロヒトは、1947年9月に「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望
む」という「メッセージ」(1979年に「発見」され、2008年3月から沖縄公文書館で公
開)をだしていた。現在の「琉球処分」、アジア太平洋侵略責任をとろうとしない日本
政府の政策は、天皇制の維持とむすびついている”、
と述べました。
休憩をはさんで、参加者全員の間で、活発な意見が交わされました。
海南島の住民虐殺の歴史的な責任の問題は、知花さんが構造的差別という指摘をしたように、現在の日本の状況の問題と関わらせて受け止めるべきだという意見が出されました。
天皇の戦争責任と国民の戦争責任との関係を問う発言も何人かから寄せられました。
沖縄における住民虐殺、海南島における住民虐殺の事実を知れば知るほど、重い気持ちになる。天皇に侵略責任があることは言うまでもないが、もし天皇が敗戦のときに退位していたとしても、はたして日本人は戦争の責任をみずからが進んでとったかどうか疑問だ、という意見がありました。それは、戦時中に、庶民が軍部の虚偽の情報を見抜けずに侵略戦争に動員されて行ったことともつながっているという意味でもあるとのことでした。
国民に真実を教えない教育が今日もなお続けられていることの恐ろしさについての発言もありました。
歴史的責任の問題を自分の身近な人間関係や自身の名前の由来や自分の出身地と関わらせて発言した人もいました。自分のおじさんが沖縄の読谷村で日本軍として戦死したという人、沖縄出身で「内地」の男性と結婚した女性からみた日本人観など、自身の体験にもとづいた発言がありました。
何人かが、日本国家の侵略犯罪にかかわる事実を具体的に知ること、知らせることが、現状を変えていくために重要だと発言しました。
総会の最後に、海南島の旦場村の追悼碑建立のための強力を海南島近現代史研究会が呼びかけ、参加者の多くの方から寄金が寄せられました。
総会終了後おこなわれた懇親会でも知花さんを囲んで、これからどうしていくのかについて議論が深められていきました。
斉藤日出治
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