研究会

       

 

2012年2月26日(日)に、海南島近現代史研究会第9回定例研究会を開催しました。
多くの方のご参加、ご協力、どうもありがとうございました。

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海南島近現代史研究会 第9回定例研究集会報告

 きょう(2月26日)、大阪で海南島近現代史研究会の9回目の定例研究会を開催しました。
 はじめに、「海南島の日本軍占領地域における“日本語教育”」という主題で、海南島で日本語教師をしていた細見f(ほそみのぼる)さんに話をしてもらいました。
 細見さんは1942年に海南師範学校の第1期生の応募試験を受け、4月に海南島に渡り、海口で6カ月の教育を受けた後、陵水小学校に赴任して、そこで1年半にわたって地元の黎族の130名の子供たちに日本語などを教えました。自分は治安維持会の通報で「襲撃を受け」そうなときは早く帰るなどして難をのがれたが、教師のなかには司令部に連絡に行くときに「攻撃を受けて」死亡した者もいたという話をしました。海南師範学校の関係者で1954年に結成された黒潮会の会員は、1975年から毎年1回、20回にわたって海南島を訪問してきており、細見さんもそのうち5回参加して教え子と面会し交流を続けているそうです。

 細見さんの話に続いて、竹本昇さんが、細見さんのほかに海南島近現代史研究会が聞きとりをした3人の元日本語教師の証言内容を報告しました。それは、海南師範学校1期生だった阿津川俊宏さんが、「日本軍に日本の国旗を揚げるように指示されたが、子供たちから“なぜか”と問われて、自分の判断で掲揚をやめた」と語ったこと、海南師範学校3期生だったYさんが、「敗戦後日本にもどって小学校の教師を勤める中で部落解放教育にかかわり、差別問題を学ぶことを通して、自分が海南島で日本語を教えたことは差別教育であったことに気付いた」と語ったということなどでした。

 続いて、キム チョンミさんが海南師範学校の設立の経緯と「日本語教育」の意味について報告を行いました。日本海軍海南警備府特務部が島民を「東亜共栄圏確立」のために動員し日本語を「東亜共通語」としようとして海南師範学校を設立し漢語と日本語の教科書を編纂したこと、三亜郊外の「六郷村」では日本人移民の世話をする“使用人”を育てるために日本語学校が開設されていたこと、などが話されました。

 3人の報告の後、細見さんを囲んで討論がおこなわれました。海南師範学校をつくって日本語教育を行ったのは何のためであったのか、という質問に対して、細見さんはアジアの南方政策でもそうだったが、「東亜共栄圏」を築くための政策の一環であったのではないか、と述べました。

 休憩をはさんで、後半は会員の研究報告で、まず、佐藤正人さんが「海南島における非軍人日本人の侵略犯罪」と題して、官僚、警察官、技師、移民、商人、企業家、教師などとして海南島に侵入していた日本人について報告するなかで、アジア・太平洋における日本の非軍人による侵略犯罪にかかわる諸事実を詳細に全体的に明らかにしていく作業を具体的にすすめていく歴史的方法を話しました。また、日本敗戦後にアメリカ合州国軍などによっておこなわれた戦犯裁判において、海南島における膨大な数の住民虐殺についてほとんど裁判がおこなわれなかったことが指摘されました。

 続いて斉藤日出治が「日本人研究者の植民地意識」と題して、海南島占領下で行なわれた日本人「研究者」による数多くの「学術調査研究」(動植物、鉱物資源、土壌、気候、河川、住民生活などの)が日本による海南島の「開発政策」と密接にかかわり、島の鉱物資源、熱帯産農産物、畜産物、労働力を収奪するための政策と連動していたこと、またこの海南島における日本人「研究者」の学術調査研究が台湾の植民地統治の延長上におこなわれたものであること、を報告しました。

この斉藤報告を補足するかたちで、留学生の趙従勝さんが報告し、日本軍が東京帝国大学をはじめとする日本の研究機関、海南島の進出企業、台湾総督府の調査機関にそれぞれ委嘱するかたちで海南島の農業調査を進め、熱帯軍需資源の確保に努めた経緯について説明がありました。

 最後に、現在の海南島の昌江黎族自治県で進められている原子力発電所建設、文昌の衛星発射センターの建設について説明があり、土地を収用して住民を追い出したことが報告されました。また2011年10−11月におこなわれた第20回の海南島訪問の報告と、3月に第21回目の海南島訪問をおこなうことの報告がなされました。

 日本による海南島の軍事占領に教師として直接かかわった人の体験を通して、その歴史的な意味をふりかえることができたという意味で、貴重な研究集会になったかと思います。 

また海南島における日本の戦争犯罪、侵略犯罪を、アジア・太平洋のひろがりのなかで、また軍事占領以前の日本の侵略史全体のなかで考えることの重要性を認識する意味でも、大切な研究集会であったと思います。

斉藤日出治

   
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