海南島月塘村の追悼碑

虐殺63年後に建立

                       

海南島近現代史研究会 佐藤正人  撮影■小谷英治

 

 


■農暦321

日本敗戦わずか3か月半前、「沖縄戦」のさなか、1945年農暦321日(52日)、海南島万寧市万城鎮月塘村を、

佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、多くの住民を銃剣や銃で殺しました。

  その63年後、2008年農暦321日(426日)、月塘村で、「月塘三・廿一惨案紀念碑掲碑儀式」がおこなわれました。

この日朝9時半に、200人あまりの村人と月塘村の益豊小学校の生徒150

ほどが見まもるなかで、赤い布がとり去られ、白い大理石に刻まれた

「三廿一惨案紀念碑」という赤い文字が現れました。爆竹が鳴らされました。

■月塘村追悼碑

追悼碑台座正面には「月塘村“三・廿一”惨案碑志」が刻まれており、

左側面には190人の犠牲者すべての名が刻まれており、右側面には、

つぎのような日本政府への要求が記されています。

1、われわれ月塘村村民に、国際社会に公開で謝罪せよ、

2、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ、

3、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ、

4、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。

 

 

■除幕式

万城鎮益豊小学校全体師生と万城鎮月塘村村民

委員会と海南島近現代史研究会が献花し、全員

が黙祷しました。

月塘村委員会主任朱進平さんと万寧鎮副鎮長

のあいさつのあと、受害者和遇難者家属代表の

朱瓊波さんが話し、万寧市委員会史誌辧公室主

任が話しました

 そのあと、海南島近現代史研究会の佐藤正人

が漢語であいさつし、つづいて、金山さん

(海南島近現代史研究会会員。朝鮮族)が、

この碑が民衆のちからで建立され犠牲者全員の名が刻まれている意味が大きいと話し、漢語に翻訳したキム チョンミ

さんのつぎのようなあいさつを朗読しました。

 「朝鮮が1945年に解放されるまで、多くの朝鮮人が、日本の植民地政策によって犠牲になり、また抗日闘争の

過程で、命を落としました。

朝鮮人の中には、海南島に強制連行され、過酷な労働で

亡くなった人たちがおおぜいいます。生き残り朝鮮の故郷に

戻ることができた人から、食べ物がなくて苦しかったとき、

海南島の人たちから芋や水をもらい助けられたと、聞きました。

月塘村で日本軍に殺害された人たちは、わたしには、同じく

日本軍に殺された朝鮮人の同胞の姿と重なります」。

 キム チョンミさんは、423日に海南島の三亜国際空港に

着きながら強制退去させられ、この式に参加できませんでした。

 

 

この日、昼過ぎ、月塘村に雨が降り始めました。63年まえのこの日にも、雨が降ったといいます。

 

■追悼碑建立基金

海南島近現代史研究会は、昨年85日の創立集会のとき、月塘村の犠牲者追悼碑建立のための募金運動を始める

ことを決めました。

106日に、月塘村で「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組」が結成されました。

  追悼碑建立までの間に、海南島近現代史研究会に在日朝鮮人と日本人から寄せられた基金は、72万円5千円でした。

海南島の民衆に、朝鮮民衆、日本民衆が協力して建立されたこの追悼碑は、日本政府に月塘村虐殺の事実を明らかに

させ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる運動の拠点となると思います。