第15回・第28回海南島「現地調査」2015年11月17日〜11月30日 |
韋怕南さん(86歳、午年) 「日本軍は道路や橋を村の人たちに作らせた。 石碌に行かされた。山で石や土を切り取る。 病気などしごとができなかったら 積み上げた木に火をつけて投げ入れるのを見た」 (英邦郷光村で孫、韋王飛、ひ孫といっしょに。11.18.) |
張老桃さん(92歳)は 八所の港湾建設現場でしごとをした。 「朝鮮人といっしょにしごとをした。 いっしょにご飯も食べた。朝鮮人はやさしい。 レールを運んでいた。 重いので?アイヨーサ、アイヨーサ”と声かけあっていた。 妹妹よ、と話しかけてきた。 ?わたしは朝鮮人。日本人につかまって連れてこられた”。 上海から大学生も大勢つかまってきた。 何千人もいた。大学生は注射をされてすぐ死んだ。 抗議活動をすることを恐れて。 見て涙がぼろぼろこぼれた」 (東方市八所鎭八所村。11.20.) |
張仁常さん(90歳)も 八所の港湾建設現場で働いた。 「朝鮮人、アメリカ人もいた。 とても多い。朝鮮人は男も女もいた。 女の人はしごとをしない。 きれいなかっこうをしている。 女の人だけで小さな部屋に住んでいた。 朝、散歩をしていた。 掃除をしていて、“日本娘よ、汚いからこっちにこないで“ というと、“ちがう、朝鮮人”と言った。 上海の労働者は大学生が多かった。 皮膚病にかかっている人が多かった。 注射をされてこうなったと話していた」 (東方市八所鎭八所村。11.20.) |
八所鎭新街村の傀定平さん(1936年生) にはじめて会ったのは2003年春。 隣村の?頭村の漁港近くにあった 横須賀鎮守府第4特別陸戦隊守備隊の望楼跡、 日本軍が爆撃した学校の跡などを 案内してもらったあと新街村にもどり、 日本語学校のあった場所などに案内してもらった (11.20.) |
白沙黎族自治県邦溪鎮南北溝村の住民虐殺現場。 中央の土が盛り上がって日が当たっている場所。 周りはゴム林。虐殺された人たちが今もそのまま埋まっているので、 ゴムの木を植林したとき、その場所を避けたという。 すぐ近くに日本軍の炮楼があった。 符文偉さん(1972年生)の案内で (11.19.) |
1998年6月、 はじめて「朝鮮村」を訪ねたときからの 知り合いである符亜輪さん(1916年生)と子の学秀さん。 符学秀さん(1955年生)は、 どこかに持ち去られたり捨てられたりした 「朝鮮村」の遺骨について憂いている。 「骨は歴史的証拠だから、 きちんと保管しておかなければならない」(11.21.) |
左から、符文偉さん、 潭亜徳さん(1931年生) 陸色開さん(1931年生) 潭亜徳さん(1931年生) 潭亜徳さん「殺された人たちの死体は、 みんな一か所に捨てた。 その場所はいまもそのまま。 日本軍のために、いろんなしごとをした。 ここでも、石碌でも。 しごとが遅いといって殴られ、 ことばがわからないといって殴られ。 石碌で中国本土から来た人がいて、 髪の毛を編んで頭の上で巻いていた。 かなり多かった。 村の人たちは日本軍が来たとうじは村にいたが、 すぐにほとんどがあちこち逃げて、 日本軍が降参したときは、 この村には人は少なかった」。 陸色開さん「日本軍は 近くの軍部でときどき庶民を列に並ばせ木でなぐっていた。 酸梅樹につるして殺したこともあった」(11.19.) |
家族と村の人たちに囲まれる胡京宏さん (2000.3.28.) |
表土がはぎとられ塩分が吹きだした 英州飛行場跡を歩く胡京宏さん(2003.3.25.) 2015年11月、ここは集合住宅が立ち並んでいた。 |
横に、1967年4月の日付がある「受難同胞永垂不朽」の ちいさな碑石が立てかけられている。 大きな穴が掘られ人が投げ込まれて焼かれたところは、 今は土が盛られ草に覆われている。 胡京宏さん(1927年生)は13歳の時、汕頭から強制連行された。 飢えと厳しい労働で動けなくなり、 この穴に放り込まれ火をつけられたが、 雨が降ってきて火が消え、夜中に穴から逃げ出したという。 胡京宏さんは字を書けず父母に手紙を書けなかった。 父母は胡京宏さんが海南島に連れていかれたことも 知らなかっただろうという。 一度も故郷に戻らず、2008年3月に亡くなった。 12年8か月ぶりに訪ねた大坡村で、 胡京宏さんの子、胡林海さん(1960年生)に 今も残っている日本軍のトーチカや 「万人坑」を案内していただいた(11.21.)。 |
文昌市潭牛鎮昌美村の「幸存者」とその家族たち。 昌美村では住民50人あまりが、 1942年10月31日(農歴9月22日)、 日本海軍海南警備府第15警備隊に殺害された。 魏学策さん(1938年生。右から2番目)は、 母、姉、伯母を殺された。 魏学策さんは母に背負い袋で負ぶわれていたが、 後ろから刺されひもが切れて落ちた。 それから刺された。4歳だった。 魏仕廉さん(1926年生。左)は 祖父,弟、妹といっしょに逃げて助かった(11.23.) |
?維英さん(1924年生) 「日本軍は、隣村土卜嶺村祠堂で良民証を渡すから集まれというので、 父母や村の人たちは行った。 じぶんは子どもだから良民証をもらわないので家に残っていた。 銃の音が聞こえたので、山のほうに逃げた。 しばらくして戻ると、母は弾があたらず逃げだして村に走ってきた。 (ほかの人の血で) 血だらけになっていた。 “早く逃げろ、日本軍に殺される”と叫んで。 いっしょに山に逃げた。父、?増瑞は殺された」 (海口市甲子鎮慶雲村。11.23.) |
雲維召さん(1935年生)に、 大水村の村内と近くの羅馬嶺の日本軍の炮楼跡、 「大水戦闘」のさいの 共産党、国民党両軍の犠牲者が埋められた場所に案内してもらった (海口市三門坡鎮大水村の日本軍炮楼跡で。11.24.) |
梁振三さん(1925年生)と李秀花さん(75歳)。 梁振三さんは「韓国人がここまで来てくれてうれしい。 元気だったら銃を持って日本人と戦う」と話し、 殺された人たちの名前を思い出してくれた (海口市甲子鎮土卜嶺村。11.23.) |